昭和51年03月09日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 これは今の金光教いわゆる教団の歩いて来た道。又は現在至っておる所の状態を言い当てたような感じの御理解ですね。ね、段々踏み広げて行かなければ繁盛ではないというのに、いわば道に草を生やす様な事をしておるから、段々少なくなった。何百と言われた信徒が、ね、いわゆる現在50万。実際はその50万もいないかも知れんと言われておるのです。踏み広げるのではなくて、いわば道に草を生やす様な事になって、道を愈々狭めて来た。そこでこれではならんと言う様な所から。
 今度の教監があだち教監ですか、あれは何て言うですかね。なんですかね、の教監が替わられていわゆる、まっ金光大神の、まっちょっとした革命だと。本当に変えなければいけない、(脳裏?)のある方ではいけない。御取次ぎ成就信心生活運動も二十何年間続けて来たけれども、その一つも実上がらない。ね、素晴らしい事だのに実が上がらない。なら教団でも世界の名教だ、世界の名教だと言うて来た。また名教の資格を持っておるのが金光教だと思うんです。ね。
 もうそれは本当に素晴らしいです。ね。もう本当に言うならば人間がさせて頂く宗教です。ね、宗教には必ず迷信臭いものがあるけど、迷信臭いものがない。ね。しかも普遍性に富んでおる。教えがね誰でも実行出けるような内容のものである。しかもおかげの実証をして行く事が出ける。もういわば名宗教の言うならば全部を、が足ろうておると思うくらいに、私は金光教の信心は素晴らしいと思うんです。ね。
 だからとてもとてもそげな事は難しか、そげな事は出けんと言った様な、とても人間技では出けらないような、いわばそれを高度だという風に言う人もありますけれども、決してそうではない。宗教はどこまでも人間が助かって行くと言う事。昨日の御理解を引くならば、ね、所謂人間が愈々子孫繁盛家繁盛に繋がって行く信心。しかもそれが世界の繁栄に繋がるというほどしの内容を持った宗教が、どうしてそういうんなら道に草を生やすような事になり、段々狭められて来たのであろうかと言うのであります。ね、
 私は結局おごりがましい事をすなと言われる、その、おごりがましい事になって来たからだと思うです。もう自分より良かつなかごと思う。しかも人間の言うならば考えで。ね。これが金光教だそれは金光教的ではない。金光教とはこうだと言うておる内に、言うならば議論に議論を重ねておる内に、いつの間にか金光教の信者が少なくなって来た。もうこれはもう本当に事実だから仕方がないこと。ね、
 そこでなら今度の新しい、いわば御取次ぎ成就信心生活の新発足と言う事になって、まああらゆる角度から様々な話し合いが、それこそ会議会議が続いております。ね。どう言う所に言うならば道に草を生やすような事。結局私は思いますのに、金光教があまりにもね、人の前いや人間の見た目で素晴らしい宗教だと、言わせようとした所にあると思うです。だから金光教の信心をいわば悪口を言う人がない。上品だと中々。ね、して中々所謂妥当性がある。というてなら金光教に入って来る者おらん。
 只褒めるばかり。悪口を言われる所が、まぁあんまりないと言うのです。それは人間の前ばかりをつくらうような考え方をして来たからです。これは私の生き方ですけれども。ね、例え人からは笑われても、神様からは笑われてはならんという生き方が、段々、ね、少なくなって来たからです。昨日秋永先生が、あちらのお爺さんの三年の式年祭でしたから、皆で親戚兄弟皆集まって参りましたが。御直会の後に話しておりましたが、今日は大里さんて、福岡の御信者で印刷をなさっておられます。
 ここであの和賀心時代を創るという御本を作って下さった印刷屋さんです。中々素晴らしい信心。もう教団でも有名な御信者さんでもある訳です。やっぱ九州の色んなあの連合会なんかでも、矢張り中心をなされるような感じの方です。御用の出来ておられる方ですが。今度玄潮に日田の綾部さんを取り上げてあります。それでこの頃からあちらの写真番の方が、教会それから日田の方の綾部さんのお宅やら写真を撮りに来まして。その中に書く、その原稿を昨日秋永先生が持って行った。
 もうちょっと見てからまあ原稿はもう、そっち退けでもうこれは私が都合ようしとこうと、と言うて秋永さん一つ今日は私が話を聞いてくれんのと言うて、言われるのがです。もうとにかく合楽の評判というのは、全国つつ裏どこに行ったっちゃ大した事じゃとこう。所が九州では評判の悪かこつは、またりょうけに及ばんち言った。惜しかちこれだけの先生がおられて、これだけの教会これだけのごひれいが立っておるとに、こういう悪口を言われておるような事は、アンタだん知っとるかとこう言うのです。
 これはもう親先生にだん決して言うちゃ駄目、もう貴方に言うとじゃからと言うて、まあ言われたと言うのです。秋永先生は聞いとってから、家の親先生はまあ、そのまあだそげな悪口をそれはお宅から、あっちこっちから聞こえて来ます。けれどもこれはまあだ合楽は繁盛するばいのち言うてから言うて来いち。もうあんたがそげな事ならもう言いもされん。けれども大坪さんあんたが今言うた悪口というのは、説明しようと思やあみぃんな説明の出来る事ばっかりなんだと。
 だからそういうんなら皆さんが親切に言うて下さる、思うて下さる方の通りにもし合楽の親先生がなさったら、合楽のごひれいは落ちるでしょうとこう言うたと。なぜその人目ばかりを見ておるからです。ね、人あれがどう考えであろうあれがああ言いよんならば、こげん言われちゃならんようにと言うて、人間心ばかりでの悪口だからなんです。ね。私の生き方はもうどこまでも人から笑われようが、ね。
 又は悪口を言われようが問題じゃない。ただし神様から悪口を言われたり、神様から笑われる様な事であってはならんというのが私の生き方ですから。私は教団にはねそういうものが段々欠けて来たとこう思うです。だから教団がもし改まなければならんなら、そう言う所から改まって行かなければ駄目です。ね。ただ社会に布教する。ね、金光教の信心を社会の人に語って行くと。成程語って行くと言う事は素晴らしい事でしょうけれども、そんなら一つ教会にお参りしてみろうかと言うて参って来た人がです。ね、
 おかげを頂かなかったら、必ず離れて行きます。人間心じゃ助かりません。どこまでも神様には笑われない生き方といのがあるのです。神ながらな生き方があるのです。だから、神ながらなおかげ、言うならば、示現が、神様の示現活動と申しますかね。神様が不思議な働きを示し現して下さるといったようなおかげになって来ないのです。ね。そこでです、今度の本部で天地書附を基軸にしてと言われております。そこでほんならその基軸にしてもです、それをどう頂くかと言う事に問題があるのです。
 もうこれはどこの誰、どこの宗教学者が言うてもです、金光教の天地書附の素晴らしい事は皆が認めておるです。生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあると。所が金光教毎日朝晩唱えておるその人、人達がですなら天地心の天地書附のいわゆるお心というものを、私どもが体得してない。日常生活に現していない。唱えておるだけだと。それではいくら天地書附を基軸にした所で、まあそれを語って行った所でです、大した事はないと私は思います。
 昨日秋永先生ところのお爺さんの、まっ式年祭で私は朝昨日ですね。昨日の朝今日で式年祭の事を神様にお届けさせてもらいよったら、もう朝もうのっけにあちらのお爺さんの姿を頂いた。あの普段着を着てこうちゃん、ちょっとあの茶羽織のようなものを着て、そしてもう実ににこやかな風のお爺さんを頂きましたから、ははぁこれはあの亡くなられる時に和楽と言う事を頂いておりました。もうこの人は和楽の人だと。ね。皆さんも御承知のように、若い時にはずいぶん道楽もなさった方らしい。
 そしていわゆる今の言葉で言うと、何ですか。何ち言うですかね。あの出られたっきり帰って来られんのです。東京の方へ大体が東京の、いわゆる江戸っ子のちゃきちゃきの、だいたい江戸っ子です。それがこちらの方へお仕事に見えて、中々の名人でしたから、もう久留米辺りの大きな(とくめだ)さんとが、大きい何ですかね。まるまんそれはあの(もりしん辺りの郷士の?)時の、佐世保にはほとんど、お爺さんがなさった。
 それで長年(元?)、こちらへ泊まり、長年こちらへ居付いての仕事をなさっておられる時にその、(まあた?)の方へ、ある人の進めで養子に入られた。そして秋永先生の姉さんと秋永先生が出来られて、そしてあの出られたきりです、ね、その帰られない訳です。その間におばあちゃんが信心を、まあ頂かれた事になる訳ですけども、大変な難儀の中に、そのおかげを頂いて来ておりますけれども。
 丁度あの関東大震災です。それに遭われて、もうそれこそ来たきりスズメのような恰好で、あの帰って来られてその亡くなられるまでこちらおられた訳です。だからもう根限り家内に心配をかけ、子供達にも苦労をかけたから、もう金輪際もう腹は立てんぞ。家内に言えにっかこつどん言わんぞと。もうどういう場合でもそうだと腹に決められたと言う事ですね。もう以来それこそ五十何十年になりますか、五十年間か。ね。
 腹を立てた事がないちゆう。おばあちゃんに嫌事言うた事がないというほどし、皆さんも御承知の通りのお方でした。だから亡くなられてから、この和楽と言う事を頂いて、さもあろう本当にそうだったな、そういう人だったなと改めて思うほどしだったですね。昨日私はあのお祭りをさせて頂く、神様にお届けをさせて頂きよる時に頂きました事が、この楽という字ですね。楽という字を真ん中がこう白という字ですかね。でこちらもこう糸偏のようなこうある訳です。
 所がこの横のこれにねこんな風に頂くんです。こう。丁度拡声器のこうしたここん所がね。そしてここに楽というこう言う様な、まあだから崩した楽とも言えれるです。そして、どういう事だろうかと思わせて頂きよったら、これが段々、こう耳になって行くとこを頂いた耳に。白のこのこの(   )、これがこう、拡声器の事ですね。しかしこれがどう言う事だろうかと思うたら、これが耳のようになって、来る御心眼を頂いてからです。私はもう本当にもう素晴らしいと思うた。
 して今日の御理解を頂いて、また愈々有り難いと思うた。ね。お互い昨日ここを下がらせて頂きましたら、丁度久富繁男さんお初穂の整理が終わっておられるとこでした。親先生今日はとても変わったお初穂がありましたて。大きなお初穂袋に二重に入っておる。中のお初穂にの上に、腹立てん事に命をかけますと書いてあった。腹立てん事に命をかけます。そして恐らくはこの人の預金の全部だろうという金が、その大きなその包み袋の中に入れてございました。
 私は感動しましたですね。本当に自分がもう本当に自分が腹を立てると言う事によって、人にどのくらい迷惑かけるか、自分もこれじゃ助からんけれども、仕方がないものが湧いて来る。ね。そこで愈々お取次ぎを頂いてです。もうありぎりの物を神様へお供えしてしかも、ね、腹立てん事に命をかけるというお取次ぎを願われておるんです。その前日でしたから、私はそう言う事が中に書いてあるとは知らなかった。
 昨日繁男さんから言われて、ほお素晴らしい。しかし合楽ちゅうとが変わったとこのと言うてまあ申しました事でしたけれどもです。お互いが信心をさせて頂いてです、和の心というのは、もう命にかけてと言うくらいにです、私は例えば腹を立てんと言った様な事だと思うです。和の心というのはです、ね、もう絶対、崩そうにも崩されない不壊の物。ね、壊れない物。そこにはですもうそこに、愈々神様に腹立ちとか。ね、まあおかげの頂かれない心の全てを、神様へ一つひとつお供えして行く事だと思うです。
 そこから言うなら、秋永先生のお爺さんじゃないけれども、和楽の徳が受けられるのです。皆さん折角信心させてもらうからですね、そこば頂かにゃ駄目です。ね。その上にね言うならば聴聞です。教えを頂くと言う事です。私はこの聴聞と言う事。この楽という字のこのこれが耳になるとこを頂いてね。言うならば和賀心の賀。だからこれは賀楽と言うたらどうでしょうかね。賀びの楽言うならば教えを頂く事の喜びです。
 この教えを頂く事の喜びというのはです、毎朝皆さんこうやって御理解を頂いて下さっておるから、必ずしも喜びが湧いておると言う事じゃないです。はあ今日の御理解は良かったのとか、有り難かったのかと言ってるけれどもです。ね、これはね聴聞すると言う事は、ね、教えを頂くとい事は、もうそのまま教えが血になり、肉になると言う事なんです。ね、この和の楽と賀の楽というのが、一つになって初めて信心頂いておる者の値打ち。ね。仏教的に言うならもう極楽行き間違いないと言う事になるのです。
 皆さんが聞いておるだけでそれを、ね、聞く喜びとか御教えを頂く喜びというもの。ね、皆さん合楽ではほとんどの方が朝の御理解、朝の御祈念でも参って来る方は、はあ今日はどういう御理解を頂くだろうかと、まっ楽しみに参って見える。だから矢張り聴聞しておられるのだけれども、本当の聴聞というのはです。ね、その教えがグイグイ自分の心の中に入って行く、血肉になって行く。はあ今日もまた新たな有り難い物を頂いたと喜べれる心これが賀の心です。
 だから天地書附で言うとこの和賀心というものはです。言うならばまず和の楽を受けなきゃならないという事です。ね、それこそ腹立てん事に命をかけますと言った様な信心が出けて、もう腹が立たん。立つどころから、その事に対してお礼が言えれる様な心の状態が開けて来て。しかも日々聴聞させてもらう御教えの有り難さにです、ね、感動する(喜び?いわゆる?)心が、いわゆる生き生きとして来る。ね。
 喜びが溢れて来る。心の中に難儀な事がいっぱいあると、どういう御教えを頂いても御教えが入らんです。ね。言うならば信心の精進を本気でしておらなければ、いわば聴聞のおかげになって来ないです。心の中に願う事頼む事ばっかり心の中にいっぱい。難儀な事だけがいっぱいだったらどんなにお話を頂いてもです入るはずはありません。所が一生懸命精進させて頂いてです。御教えに本気で取り組んで行く所から、ね、それを実践する喜び。言うならばもう決して腹は立てんぞと、不平不足どん言わんぞと。ね。
 そういう精進をさせて頂く所から、生まれて来るのが和の楽です。その和楽の心に本当はならなければ、聴聞の値打ちはないです。ね、昨日そういうです御霊様の前で、ね、和楽はもう生前から持って行かれた。それに言うなら愈々先日からも申しますように。ね、御霊の世界に入ったら、魂の世界はねもうそれこそこの世ではごまかしが出けても、あの世では一分一厘ごまかしの出けない世界であると言う事が分かりますから。
 そして金光教の信心によって助かって行く手掛りというものを、ここに縁を頂いておる御霊達は頂いておりますから。その手掛りを持って魂の清まりを願って精進しておる。言うならば私のこうやって御教えを、御霊もちゃんと日々頂いておると言う事です。その御霊の言うならばです。ね、昨日の秋永のお爺ちゃんの御霊様じゃないけれども、和楽の心に聴聞の喜びを、御教えを頂く喜びを感じて行っておると言う事が、もう愈々和楽いわゆる生神を目指して。
 死したる後神に奉られ、神になる事を楽しみに信心せよと仰るが。いよいよ神に向かってその楽しい信心、御霊の生活が出けておられると言う事を、お礼を申し上げた途端にここに皆が聞こえるバチーっとお勇みがありましたよ、御霊舎の中から。ね。だから皆さん和楽とその賀楽がね、一つになって行く信心にならなきゃいけません。教えを頂く喜びが、ね、その前にまず和楽の信心腹は立てんぞ、不平不足どん言わんぞと。ね。
 そういう私は徹底した信心信心というか、徹底した事が例えば分かってから和賀心、天地書附を説いて行かなければです、ね。和賀心とはこういうものだ自分もそれを実践しながら説いて行くものでなからなければ、いかに新運動が展開されてもです、大した事はないと思います。ね、和楽と賀楽が一つになって、そこから生まれて来る所の、もう愈々信心を頂かなければ頂けない喜び。それが和賀心なんです。今日はだから和賀心の新たなまあ、言うならば解釈を聞いて頂いたが。ね。
 例えばおごりがましい事と言う事はです、ね、金光教の信心はただ素晴らしい世界の名教だと。そしてこう言う事は金光教的ではないとか。ね、金光教はこれが本当だと言った様な事を、ただ人間の言うならば才覚とか。ね、思索の中から金光教を練り出そうとした所にです、いわば言うんらば、ね、金光教の信者として人から笑われる様な事があってはならないと。なら私が笑われて良いとは決して思わんけれども。ね。とにかく人当たりが良い。ね。言うならば人間の面だけを作って来た様な生き方。
 言うならば人間からは笑われちゃならんと言う所に、今日焦点を置きすぎた所にです、道に草を生やすような結果が生まれたと言う事です。人情が勝ち過ぎたのです。人ながらが勝ち過ぎたんです。ね。そこでならこれは私の生き方ですけれどもです。人からよし笑われても、神様から笑われてはならんという道があるのです。例えば今日言う和楽とか賀楽とかと言った様なものを、愈々自分のものにして行こうとする為にはです。ね、例えば、昨日の言うならばあの、修行の面?ですよね。ね。
 そういう言うならば背なで鳴いてる唐獅子牡丹子と言った様な時にはです、あれだけ信心しよってあの人達はと言われるような、笑われる様な事も一杯あります。けれどもそういう人から笑われちゃならん、笑われちゃならんという生き方ばっかり辿らせて頂いたら、本当のおかげの道は開けて行きません。ね。狭うても踏み広げて行くと言う事は出けません。言うなら狭うても踏み広げて行くのが、繁盛じゃと言われるその繁盛一途の道を辿らせて頂く事が出けません。ね。
 おごりがましいと言う事は、ね、金光教があまりにも高く止まりすぎた。そげな事はげさっか。だから金光教の中で御霊様専門に拝む教会があると、ああいうのは金光教じゃないと言うて、金光教の中から外そうとする様な働きがあった。ね。ほれはもう言うならば、金光様の御信心の中にはね、それこそ様々な私はとにかく金光様の信心は大きいです。もうそれこそ大変なごひれいを頂いておられる教会の先生は、ただ参って来た者におさすりをされる。それで病気がどんどん助かる。
 だからもう愈々そういうのは金光教じゃない、金光教的ではないという風に、まっ決め付けて行くけれども、問題は人が助かっておると言う事。ほれはアンタんとこには御霊様の何とかかんとかと言うて、ならそれでやっぱ助かっておると言う事だから、ね、だからより良い言うならベターの信心で行くならばです、合楽のような生き方です。本当に御教えを元にして、いわゆる教典を元にしての教えを身につけて行きながら、繁昌して行く道という。しかもそこにはです。ね。
 言うならば人間心を使わない。人から例えばよし笑われても、神様から笑われてはならんといような生き方を、愈々身に付けて行く信心こそがです、私は繁盛への道に繋がるものだと思います。金光教はそげな低級な事は言わん。金光教はこうでなかにゃいけない、と言うなら、思索から生まれたり。ね、人間の浅い才覚から学問から生まれた、生まれた事をです、振りまわしておるというか。ね、
 会議、会議と言うて、そう言う事だけに明け暮れておるような在り方の中から、いつの間にか、金光教のひれいが落ちて来た。いつの間にか道に草を生やすような結果になった。そこで今度そこに気付かせて頂いた事は有り難いけれども、気付かせて頂いたらそういうです。ね。言うならば本当に神様の働きが起こって来る。神様が発動をましますような働きの頂けれる信心。それは、愈々和賀心を身に付けて行く以外はない。その和の心と今日は賀の心を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。